蜘蛛の糸 [地域のこと]
ある日の事でございます。
御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、
そのまん中にある金色の蕊からは、
何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。
極楽は丁度朝なのでございましょう。
やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、
水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子を御覧になりました。
この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、
水晶のような水を透き徹して、
三途の河や針の山の景色が、丁度覗のぞき眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
(中略)
御釈迦様さまは極楽の蓮池のふちに立って、
この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、
やがてかん陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、
悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。
自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、かん陀多の無慈悲な心が、
そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。
その玉のような白い花は、
御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、
何とも云えない好よい匂が、絶間たえまなくあたりへ溢れて居ります。
極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
出典:青空文庫 蜘蛛の糸 芥川龍之介